私、谷村美月のファン歴16ヶ月で、Perfumeのファン歴4日なんですが、
谷村美月のファンになる前の数年間というもの、映画館ほとんど行っていないですし、DVDも月に一回借りに行くかどうかという状態でした。
Perfume知って、10年ぶりくらいでCDレンタルしてきた。
最新作の『JPN』 既にほぼ全曲知ってる。CDレンタルする以前にyoutubeでほぼ全曲引っこ抜くことができるので、
なるほど、確かに、CD買う人いなくなるはずだ、と。
youtubeという合法的なインチキでほぼ全曲ロハで手に入るんですから、ほんとに黒いやり方使うと、まあ、音楽に金払う人っていなくなるのは当たり前だよな、と。
Perfumeは、映像あるかなしかで、印象かなり変わりますな。
画面なしだったら、普通にいい音楽だ、程度で、ファンにはなりませんわね。
あくまで、あのダンスあってのPerfumeだよなということ。
中田ヤスタカのその他のプロジェクトがそんなに売れていないということが、いかにあの女の子三人の存在価値が優れているかの証明みたいなもんだと思うんで、
「Perfumeって中田ヤスタカに捨てられたらどうすんの?」って批判って、何の意味もないと思うんですよ。
レノン&マッカートニーがビートルズやめたらジョージハリスンどうすんの?って話とおんなじですわね。
無理してビートルズ維持しようとせず、解散して、そのあと自分の出来ることやり続ければ済む話ですわね。
レノン&マッカートニだって、ビートルズ解散したあとってショボいでしょ。ビートルズ解散したら、結局みんな先ぼそって行ったんですから、
「中田ヤスタカがPerfumeを捨てる」という一方的な言い方は有り得ませんわね。
まあ、それはいいとして、
やらされている感がハンパでない方々というと、Puffyも相当なものでした。
Puffyが出てきた年に近田春夫が「Puffyの曲に有る寂しさというのは、『来年になったらどうせ私たちは消えている』という彼女たちの自覚に基づくもの」と言っていたんですが、
歴史は彼の批評どうりには進まなかったです。
たしかにCDの売上枚数は、近田春夫が言うとおりに激減していったのですが、
その反面、海外でPuffyはそこそこ知名度が上がって、youtube見ているとスペイン語の字幕付きの画像とかあって、
彼女たち、頑張ってるな、と思わされます。
いまのPerfumeと同じで、Puffyもおっさんから子供までまんべんなく人気ありました。
一番のヒット曲『これが私の生きる道』って、ビートルズの露骨なパロディーなんですが、
これがパロディーだと知っている人も知らない人もpuffyの愛好者にはいたんですが、
近田春夫みたいに、替え歌レベルのパロディーやってりゃ、すぐにネタ付きて一発屋で終わるでしょ、と思った人も大勢いたでしょう。
替え歌の元ネタがビートルズだと100万売れて、サタデーナイトフィーバーだと50万までしか売れないってんだったら、
人気あるネタからパクっていけば、確実に先細りして、フェイドアウトするはずです。みんなそんなふうに思っていたと思ってました。
洋楽の名曲の日本語訳を歌う王様とかクィーンの日本語訳に特化した女王様と大差ないという認識が音楽ファンには確かにありました。
奥田民生が飽きてしまったのか、それともPuffyが逃げたのか、それとも双方の思惑の一致からなのかはわかりませんけど、
二枚目のアルバムからは、相変わらず昔のロックポップスの再現しているんですけれど、替え歌レベルではないオリジナル楽曲路線になっていきます。
もともと大貫亜美の方は音楽愛好家なんで、そういう方面にはいくらで知識あったと思うんですが、
Puffyって、みんなから未来のない刹那的なユニットだと思われていたんだけれど、実はちゃんと退路というかその後の生きる道が想定されていたんですね。
Puffyの後ろのひと奥田民生がPerfume好きだってのは、当たり前のことのように思われます。
厳島神社の奉納コンサートで『レーザービーム』歌ってましたし。
奥田民生と名曲の替え歌という路線を捨ててもPuffyはやっていけました、というより、あの路線捨ててからの方がうまくいってるようですけど、
Perfumeは中田ヤスタカと別れたら解散するしかないでしょ、というか、振り付けの人がいなくなっただけで、もうアウトかもしれない。
まあ、そういう裏方を含めてひとつのユニット結成していると考えれば、
「中田ヤスタカがやめたら」云々というのは、ローリングストーンズからミックジャガーが抜けたらと考えるのと同じくらい意味のない仮定ですわね。
Perfumeのファンってのは、
のっち―>かしゆか―>あーちゃん の順で好きになっていくってネット上に書かれていますが、ほんと、そう。
最初は、「こいつらアイドルって言ってるのに美人一人しかいないじゃん」で、のっちの方ばっかり見ている。この女の子、ダンスセクシーだよな、とか思いながら。
そんで、残りの二人はこけしとかゴリラとかネット上で書かれてるのを見て、うんうんとうなづいたりしているんですが、
その内、気がつくんですわね。
実は、ダンスでの表現力一番あるのってかしゆかで、キメポーズ取る時決まって一番変な格好している、もしくはさせられているのは、かしゆか。Perfumeのパフォーマンスの核の部分ってかしゆかが握ってるんじゃないの。
のっちほどセクシーじゃないけど、ダンスの合間合間の表情の作り方なんかは、妙に色気があって、役者の才能感じさせる。
それと比べると、あーちゃんって、テレビのヴァラエティーでは一人で喋ってるけど、踊るときは他の二人の足引っ張らないだけで、空気とおんなじだよな。
でも、いろいろネットでPerfumeのこと読んでいくと、周囲の大衆が「中田ヤスタカ抜けたらPerfumeってどうすんの?」とか「あの三人って音楽となんにも関係ないんとちゃう?」みたいに思っていることに対して、ほぼ同じことを当事者としてちゃんと心配しているのが、じつはあーちゃんだったりすることを理解するわけです。
Perfumeという本来ぜったり成り立たない企画を成り立たせているのって、この女の子なんだな、と感じるにつけ、
あーちゃんには頭の下がる思いです。
ゴリラとかお笑い要員とか誤解してごめんなさい。
PuffyとPerfumeって共通点多いんですが、
二つ見比べてみると、差も大きいよな、そして、その差ってのは時代の変化と言い切れてしまう部分も大きそうだよな、と。
以前、ゴジラシリーズの観客動員数の変遷と日本映画のたどってきた道について考えたことがあったんですが、
PuffyとPerfumeの間には一体何があったのかを考えてみると、色々面白い。
Puffyのデビューが96年でした。そしてその翌年のCDセールスが史上最高の6000万枚を記録。
音楽業界が一番潤っていた時期でした。
Puffyは脱力系と言われていたんですが、それが時代を表しているかどうかというと、アクターズの安室なんかは一生懸命路線で、必ずしも時代そのものが脱力を思考していたわけではないと思うのですが、
それでも、業界自体が潤っていたことで、こんなPuffyも許される余地があったのでしょう。
その後98年からCDの売上は減少に転じます
ちょうどこの年に自殺者が激増して年間三万人が規定路線になります。
橋本政権が消費税アップで景気を悪化させたために、バブル後の不景気が「失われた20年」に確定した年です。そして小渕恵三内閣は冷めたピザと呼ばれていました。
売上は下がってきたのですが、宇多田ヒカルと椎名林檎が出てきたので、日本のポップミュージックの質はすごく上がったように思われました。
年々縮小していく音楽市場の規模にしても、その内なんとかなるだろうとか、音楽がなくなることはないだろうと何の疑問もなく思っていました。
中国人もその内、正規版を購入して印税ちゃんと払うだろうと何の根拠もなく思い込んでおりました。
そして、現実は、金持ってる国の人たちまで中国人みたいにタダで音楽聴く方向に流れてしまったんですね。
現在の音楽市場は最盛期の3分の一にまで凹んでいます。
ただの三分の一ならいいんですけれども、現在の市場の状況というのは30%がAKBと秋元康、20%がジャーニーズ、10%が韓流と、実のところ3分の2がブラフ。
実質のところは、最盛期の五分の一程度に凹んでいると考えられます。
そして、握手券のおまけではなく、ちゃんと音楽として消費されている分につきましても、そのうちの半分以上はドリカムとかミスチルやサザンみたいな40才以上をファン対象にした20年選手であり、
ここ最近出てきてちゃんとCD売っている人たちというと、それこそPerfumeくらいしかいないという状況です。
これじゃ確かにコンビニ行ってもBGMの音楽が気に止まらなくなるわけです。
新しい音楽が、人目につくところに出てきていないんですから。
新しいものを作っても売れないのだから、人材が離れていき、制作能力さえも先細る。
「音楽が売れないだけで、いい音楽は確かに作られている」とさえ言いはれない状態になってきて、
そんな中で嘘でもいいから音楽産業を活気づかせようという韓流には一定の評価をしてもいいのかもしれません。
1960年代の経済が絶好調だった時代にテレビが普及したおかげで、映画の観客動員数は10年で五分の一に減ってしまい、それを補填するために入場料金は5倍になりました。
そして、その割高感ゆえにプログラムピクチャー的なものは映画館から駆逐され、イベントムービーみたいなものしか残ることができず、そんな情状下でアメリカ映画にかなうわけないですから、結果として日本映画は暗黒の時代に突入します。
今現在の音楽の状況というのは、これと非常に似ているように思われるのですが、
おそらく、より深刻な状況でしょう。
映画は、映画を観る場所が映画館からテレビに移行しただけで、
視聴率20%で2500万人が見ていることになるわけですから、
実のところは、映画見ている人の総数は遥かに増大していたわけです。
それと比べると音楽ってのは、聞く人の数そのものの減少につながっている分だけ遥かに危機的でしょう。
音楽がファッションと不可分だった時代って、好きじゃなくても自己主張として音楽買っていました。流行歌がなくなるというのは、そういう半端な音楽消費者をふるい落とすということでして、
わたしは今まで人よりも音楽に金使ってきた人間のつもりなんですが、そんな私でも、音楽の聞こえない空白感が心地よいと感じるようになっておりました。
音楽が人の内面や時代の何かを表しているという好ましい誤解がなくなったからだと思います。
未だに音楽購入している人たちって、それこそプロとその周辺の人たちだけって感じじゃないでしょうか。
音楽がここまで先細ったのは、ネット上でデジタル情報として流通しているからだと言われてきました。
違法にダウンロードされるから売れなくなったんだ、と皆から言われてきましたが、
それも当然あるでしょうけれども、
デジタル情報化したためにコレクターアイテムとして魅力がなくなったってのもあるでしょう。ジャケット壁に飾ったり、棚に好きなバンドのCD全部並べて満足感に浸るみたいなことなくなりました。
単なるPC内のデータで、音楽聴く時にはPCのペラペラのスピーカー、そして一番たちが悪いのはalbum通して聞く忍耐力がなくなったこと。
一曲通しで聞くこともほとんど無くなってる。
PCで音楽聴くと、一番盛り上がるところにチョクにアクセスするようになったんですね。
テープで聞いていた時は、めんどくさいから大人しくアルバム通して聴いていました。
CDになったら、好きな曲だけ飛ばして聞くようになりましたけど、曲そのものは飛ばさず最初から最後まで聞いていました。
いま、それさえしないですもん。そうして、そうなった次の段階というのは、音楽を聴くことさえやめるというもの。
音楽市場が健全だった時には、高いお金払ってCD買って詰まる曲もつまらない曲も含めて通して聴いてたんです。レンタルしても400円くらい取られていましたし、PCでコピーできるようになったのっていつからだったでしょう?
98年からCD市場は下降線をたどり始めますが、その頃からだったでしょうか?
いま、レンタルなんて一枚100円ですし、PCにコピーしたら聞かずにそれでお終いです。
昔は、テープにとっていた時は、しょうもないと思っても最低一回は全曲通して聞いたもんです。
そうなってくると音楽作る側も、実験とか冒険で無茶な曲作ったりしなくなるでしょう。必ず売れるような曲だけ作るようになってしまったんでしょうな。
終わりから3つ前の曲で冒険するみたいな伝統もなくなっちゃったんでしょう。
そんなこんなやっているうちに、レコード屋が町からなくなって、
何が新譜なのか分からない状態が当たり前になり、全ての新曲は今までに発表された曲と競合状態になりまして、
ネット上で検索する分には、新しいから有利とかそういう条件ないですから。
そんなわけで、私がここ数年聞いていた音楽ってベートーヴェンとかショパンばっかりだったんですわ。
こうなってしまうともう音楽って以前のようなものではなくなってしまいました。
音楽は消滅していないですけれども、流行歌は世の中から消滅しました。そして金が入ってこないんですから、音楽やるプロの人材が居なくなってきました。音楽制作能力も落ちてきます。
オーケストラを維持するシステムが壊れてから、交響曲でベートーヴェンを超える物って出てきていませんよね。
200年前より世界経済はるかに拡大しているにもかかわらず、オーケストラ維持するシステムにお金が流れない故に、クラッシックは進歩止めてしまったんですわ。
Puffy
のデビューしたときというのは、いろんな意味で恵まれた時代で、今と比べたら、遥かに景気の良い明るい時代だったように思われます。
ここ一年地震のニュースばかり、そうでなかったら世界経済崩壊までのカウントダウンみたいなニュースばかり、
それと比べると、
明るいわな、このPVは。
まだ自殺者が2万人台だった時代です。海外旅行、リゾート、ヴァカンス、そういうものがまだ生きていた時代です。
昔のヒット曲の替え歌レベルのパロディーやってましたが、
youtube検索で,本家とすぐに比較されるという時代ではなかったですし、グローバリズムもまだまだでしたから、横文字を縦文字にした翻訳ポップスというものも生きていく場所がありました。
いろんな意味でニッチーなものに居場所のあった時代だったんですが、
今はすぐにネットで検索され、同時代のあらゆるもの、歴史上のあらゆるものと比較されることになります。
今の時代だったら絶対Puffyはデビューできていないという気がします。
なんで、PuffyとくらべてPerfumeのパフォーマンスはあんなに真剣なんだろう、と考えるのですが、
アクターズ系の芸人だから一生懸命路線なんだろうというのも有りましょうけれども、
あそこまでやらないと売れない時代に、今はなってしまったのですね。
辛い時代だと思います。
もうポップミュージックの歴史は終わったと思っている人が、最後に注目するのがPerfumeであり、彼女たちの不自然さというのは、所謂ポップミュージックをやっている立場なのに、ポップミュージックを否定しているからだと私は思うのです。
Perfumeの音楽は10年前には絶対ありえないという類のものではないと思うのですが、ただしかし、10年前にPerfumeが『不自然なガール』みたいなことをやっていたとしても、「この三人音楽とどういう関係あるの?」という疑問に誰も肯定的な答えを出せなかっただろう、そして売れることなかっただろうと私は思ふ。
puffy 音楽が終わったあとに
Perfumeのファン歴5日目
PVは、もともとビートルズが多忙だったため、宣伝に赴けない場所でも宣伝活動ができるようにと作成したものでして、
正にレコードを売るためのプロモーションのためのビデオだったのですが、
80年代に入ってから、金の無いイギリス人たちがアメリカで安く効率的に宣伝するためにと、いろいろアイデアを絞って新規なものを作り出します。
そんな中でMTVというPVだけを流すテレビ局が出来、全てのミュージシャンがPVを作らなくてはいけないという状況になりました。
マイケルジャクソンがジョンランディス監督で低予算映画並みの制作費を使って『スリラー』のPVを制作し、そのあまりの出来の良さに、
「音楽は聞くだけのものでなく見るものになった」というようなことも言われましたけれども、
Perfume見て気が付きましたが、
「音楽は聞くものでなくてみるもの」というレベルにポップミュージックがたどり着くまでに、その後20年以上かかっているんですわね。
むかし、ビデオでPVを集めたものを買ったりもしましたが、好きな曲だけ繰り返してみようとするとテープが痛みますし、また巻き戻しがめんどいんですわね。
結局めんどくさいから音楽は見るもんじゃなくて聞くもんだと思っていたんですが、
DVDプレイヤーを買ってから、好きな曲だけ繰り返し見ることができるようになってから、実は音楽の見方って既に変わっていたんですね。
このブログの題名が「映画の見方」って言うんですが、
谷村美月みたいに映画一本に数分しか出番がない女優のファンやるにはDVDの機能が絶対必要、それもPCみたいな目盛移動させることで早送りやるような機能が絶対必要でして、
そういう機器が揃ったことで私は谷村美月のような女優のファンになり、繰り返し繰り返し、彼女の演技を見ることで、自分の映画の見方が変わり、映画に対する認識が変わってしまったのですが、
音楽を聴くだけなら、テープを回すウォークマンがあればよかったのでしょうけれど、
音楽を見るには、DVDやyoutubeが出てくる必要があったわけです。
映像作家が何やったところで、テクノロジーの進化にはかなわないってことでしょうか。
「見るための音楽」を作ったのは、結局テクノロジー側の要因でした。
ちなみに私がDVDプレイヤー購入したのが2003年の正月。世間的にピークだった年は2004年です。
一応私映画ファンだったんで、人より少しだけ早いです。
当たり前なのかもしれませんが、Perfumeの曲って、CDで聞くよりもyoutubeで見るほうがはるかに面白いんです。
昨日レンタルしてきましたけど、ちょっとだけ聞いて、それ以降は、前と同じくyoutubeで見ています。
perfumeによって、私個人史的に初めて「音楽を見る」ということを実感しますた。
彼女たちのダンスって音楽を表現しているんじゃなくって、
対位法的に音楽に関わっているんですわ。
今までのPVの常套的手段ってのは、歌っているミュージシャンの顔見世、もしくは映像を音楽になぞらえようとする努力だったんですが、
perfumeって音とダンスが対位法なんです。だからCDで聞くと、肝心なところが抜け落ちて、あんまり面白くないんですわね。
「中田ヤスタカ抜けたら彼女たちどうすんの?」って、ほんとにどうでもいい批判なんですわね。
[映画論]映画の瞬き
映画というものが、わたし、だんだん分かってまいりまして、
それにつけて、他人の書いた映画についての本を読んだりもするようになったのですが、
『映画の瞬き』は『地獄の黙示録』等の編集者であるウォルターマーチの著作。

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彼は、
『カンヴァセーション 盗聴』の編集を行なっている時に、カットのつなぎ目が奇遇にも主役のジーン・ハックマンの瞬きと非常に高い確率で重なることを発見し、
カットの切り替えは、映画における瞬き、なのではなかろうかという結論に達する。
人間は、自分の意識の流れに句読点を打つような感じで、
意識に一区切りつけようとするときに、瞬きを行う、
そうで、
視線を切り替えて、見る対象を切り替える行為 つまりカットの切り替えと人間の生理現象である瞬きには類似性があるとのこと。
その他にも映画の編集をするときには、椅子に座っているとできない、
編集という行為は、映画とワルツを踊るようなもの、という言葉もある。
映画のお約束事は、あくまでも作る側の内輪で文法化されたものであり、観客にとってはそのお約束事は秘されたままで、ただサブリミナル的に作用している。
なぜ、観る者の無意識的に働く表現が、一定の効力を持っているのかというと、
それらは、本来、人間の生理的要因に沿ったものであるから、と私は考えている。
もしくは、自然界の物理現象に類似したものであるとか、
たとえば、
フェイドアウト フェイドイン 夜が来て朝になる情景をもしたものであること。
たしかに、ウォルターマーチの話は、私が『湖中の女』という完全POV作品を見たときの違和感の説明になっています。
『湖中の女』に関する関連記事
ただしかし、わたしなら、もっと面白い話ができる。
瞬きを映画の演技の中でどう使っているかということも、私は、谷村美月の演技の中から学ばさせてもらいました。
『おろち』という楳図かずお原作の映画では、彼女は、妖怪の魔性を表現んするために、ほとんど瞬きをしていません。
一分間くらい平気でまばたきをしていないのですが、
しかし、この映画が特別なのかというと、彼女の最初の映画『カナリア』の中でも一分間に3回くらいしかまばたきをしていません。
演技のレッスンを受けると、かなり早い時期に、瞬きの回数を減らすように指導されるのでしょう。
ドライアイの人にとっては辛いことだと思います。
尤も、彼女が普通にバラエティー番組に出るときなどは、一分間に30回以上瞬きしています。
これが、普通の瞬きの回数であり、
つまり、日常生活では、映画の演技と比べて、遥かに意識の流れが雑多な方向に行ったり来たりしているということであり、
映画の中で描かれる人物像は、瞬きの回数で考えるなら、10分の一程度に内面の意識量を整理されて観客に提示させられていると言えるでしょう。
それだけ、単純化された人物像なのですから、映画の登場人物に私たちはかなり容易に感情移入することができます、
それと比べると、現実の世界の他者には、なかなか感情移入することはできません。
なぜ、映画を見ながらボロボロ泣いている人が、現実では無慈悲でいられるのかの理由がよくわかるような気がします。
関連記事
リアル鬼ごっこの谷村美月の瞬きの演技
ただ瞬きするだけで、自分の意識の切り替えポイントを示すことができるのですから、相手の話を聞きながら、どこでまばたきを入れるかで、その人物が相手の話をどう評価しているのかが、ほぼ見ていてわかります。
これは映画の中だけでなく、現実でもだいたいこの通りで、非常に有用な知識です。
もうひとつ面白い話に深めますと、
生身の人間は、ドライアイの問題がありますから、瞬きはしないといけないものです。それに個人差がありますから、瞬きの回数の多い人が、必ずしも内面意識の流れの複雑な人とは言い切れないのですが、
アニメのキャラというのは、本来まばたきをする必要のない人たちです。
それでも、彼らは時に及んでまばたきをちゃんとしているのですね。
機動戦士ガンダムの『強行突破作戦』を例に取りますと、
ザクレロというしょーもないモビルアーマーの出てくる回です。
前回にグラブロというかなりの強敵がいたので、そこにシャーが乗っていたんじゃないかとセイラさんがくよくよするのですが、
ガンダムって、塩辛い制作状況で作られた作品だけに、作画の汚さってのは、とんでもないレベルでして、
この回で、瞬きしているキャラは、アムロとセイラさんとほかに数人だけです。
チェックしてみる前の予想として、ガンダムって低予算番組だから、誰一人瞬きしていないんじゃないかと思ったんですが、
確かに、あんだけ目の大きいキャラがほとんど瞬きをしないのは、見ていて疲れるんですが、セイラさんとアムロはちゃんとそれなりに、あくまでもそれなりにですが、瞬きをしていました。
どういうことかというの、意識の流れに変節のないキャラってのはまばたきさせないんですね。
それに対し、セイラさんは兄のシャーのことを仲間に秘密にしているんですが、秘密にしている故に、言葉と心の動きに乖離が生じてしまう。そのギャップを埋めるかのように瞬きが入りまして、
それに対して、アムロが「あれっ」と訝しがるタイミングで彼の瞬きが入ります。
それ以外のキャラクターは、わりとどうでもいい扱い。
それと比べると、宮崎駿作品の未来少年コナンの方は、細かい。
『コアブロック』 これは、私の一番好きなコナンのエピソードですが、
どアップじゃなくて、この引いた位置でもラナに瞬きをさせています。
これじゃ、たしかに、宮崎駿寝る暇ないでしょうな。
意識の流れの切り替わりやすい人 = 繊細な人 という法則がこの作品には見られまして、
瞬きの回数は ラナ>コナン>ジムシー の順です。
とにかくラナには瞬きの回数が多い。
アニメで言うなら、瞬き回数が一定回を超えるキャラクターはメインキャラといっていいのではないでしょうか?
彼らの意識の流れは画面において示されており、その流れを受け入れるということは、共感することと同義でありましょう。
それと比べると、ダイス船長は非常に楽しいキャラクターですが、彼の意識の流れというのは、物語的にはほぼ無視されています。
いつ、彼が画面に出てこようとも、無思慮なアホ元気キャラとして扱われますので、意識の変節点を示す必要がない=まばたきをさせる必要がない、ということになります。
この『コアブロック』の回では、ダイスは一回しかまばたきをしません。
レプカとなると、記号的な悪役ですから、いつでもどこでも安定した悪が内面に宿っているわけでして、ヘルメット被るときの不可避の生理現象としての瞬き以外は描かれることがありません。
興味深いのはラオ博士ですが、
一切瞬きをしないのですね。これは、彼がインダストリアの人々を救おうという強い信念の元、自分の生命を顧みずに行動していることを表しているように思われます。
彼には、今更、意識の変節点などはないのでしょう。
コアブロックへの近道をたどる際に、額に烙印を押された下層民たちの居住区に立ち入ることになります。
そこは、コナンを案内してくれている青年の地元なのですが、
そこの人たちは、コナンとジムシーの姿を見ると、一様に瞬きをします。
一見すると彼らのみすぼらしい外見では、人間らしい心がないかのように見えるはずなのですが、
ところがところが、コナンとジムシーの登場に生き生きと心が動く人たちであるということが、瞬きの演出によって描かれています。
この回の未来少年コナンを見ていて、なるほど、と思い知らされたのは、
話を聞く側は、相手の話す内容の重要ポイントに合わせてまばたきを入れますけれども、
しゃべる側がまばたきを入れるポイントというのは、その話の重要ポイントと微妙にずれているのですね。
これはどういうことかと申しますと、
「きみも見ているのだが、観察をしないのだよ。見るのと観察するのとではすっかり違う。たとえば、きみも、玄関からこの部屋へ上がる階段は、何度も見ているだろう?」
とシャーロックホームズが話すときに、
彼のような頭のいい人ならば、この台詞を話始める前に、この内容が瞬時に頭に思い浮かんでいるはずです。
だから、「この部屋へ上がる階段・・・」の箇所では、ホームズの意識は階段の方にいちいち動いたりはしないんですね。
むしろ、階段という単語を口にする、かなり前に、彼の意識は階段の方に向かい、その際に瞬きをしているかもしれません。
それに対して、この話を聞いているワトソンの方は、ホームズが「階段」といった時に、実際に階段の方を向くか、もしくは頭の中で階段をイメージしているはずで、それに合わせて瞬きが入ることがあるかもしれません。
未来少年コナンでは、アニメキャラに瞬きの演技をさせる際に、このレベルのことまで考えられています。
それと比べるとガンダムは、金がないとか時間がないとか言う前に、監督の才能が宮崎駿と比べると見劣りするというしかないでしょう。
富野由悠季は著書『映像の原則』の中で、アニメの画面は<―の方向に進行する、と私と同じことを熱く力説していましたが、
ガンダムの画面を見る限りでは、その理屈に自覚的でありすぎる故か、画面の流れが悪い。見ていて自然に心理が誘導されるというものではありません。
作画枚数が圧倒的に足りない中での作品ですから、仕方のないことなのかもしれまえんが、それにしても、そういう仕事が常態化してしまった彼の作品の、画面の流れは、少なくとも私には、心地の良いものではない。
それと比べると、宮崎駿作品は、実に自然に<ーに画面が流れていきます。
その自然な流れは、キャラクターの瞬きの的確さと呼応するかのようです。
悪役は ―>向き。
主人公たちは<―に向かう。
画面の進行方向については、こちらの関連記事をどうぞ
「映画が抱えるお約束事」
宮崎駿は生まれながらの金持ちでして、この放送時の78年には、20数インチのテレビしかない家なんかいくらでもあったはずですが、
そういう貧乏人一切相手にしていないような、この構図。
遠近感バリバリに効いた、この豆粒のような戦闘員よ。
わたしが、この『コアブロック』の回が好きだったのは、なんだろうと考えるにつけ、
宮崎駿の後の映画、『ナウシカ』『ラピュタ』で、再生を孕んだ市の国というものが登場します。腐海の底でありラピュタ城ですが、
その後の作品でも、そのような物事の価値観が日常とひっくり返った空間に主人公が紛れ込み、その中でポジティブな再生を果たすという構造が物語になっています。
コアブロックは何ゆえにコアなのかというと、宮崎駿の物語の構造のコアだからだろう、と今になるとわかります。
それゆえでしょうか、この回には、妙な魅力がこもっているように思われました。
ナウシカの腐海ほどの重要な扱いではありませんが、この地底都市でフライングマシーンを修復するための部品を手に入れます。
実に宮崎駿的な話の展開です。
ちなみにガンダムで私が一番好きなエピソードは、『大気圏突入』と『ジャブローに散る』の自由落下です。
のちのガンダムシリーズでも、自由落下のエピソードは繰り返し繰り返し描かれています。多分ガンダムの鍵を握る回だったのでしょう。
何も考えず、無心で見ているだけで、作者のそういう核心に近づくことも可能なんですね。
まあ、三子の魂も百までってやつです。
オタ芸 クィーン パフューム
パフュームって、日本の誇りであるだけでなく、アキバ系とかアイドルオタク的な日本の後ろめたいとこに繋がっており、
それゆえに、一旦パフュームのファンに成れてしまうと、日本および自分の黒歴史まで許され浄化されたような快感があるのですが、
これ、すごいです。
久しぶりに、死ぬほど笑わせてもらいました。
「うりゃホイ、うりゃホイ」って掛け声二拍子で、音楽とポリリズム形成していないですか?
Perfumeは、ダンスも存在もポリリズム的とか対位法的とか私は書いてきましたが、ダンスそのものはしっかりとリズムを捉えています。
あくまでも音楽、そして歌詞と彼女たちのダンスや存在はイメージとしてズレた部分があるという意味で、ポリリズム的とか対位法的と書いてきたのですが、
しかし、この方々、ほんとにポリリズムしてないですか、そして当然の如く彼らのイメージとアイドルとその歌というのはポリリズム的にイメージが食い違っています。(
ここ一週間、私、Perfumeばかり聴いていたせいで、
このオタ芸が妙にツボにハマるようにマインドコントロールされているのかもしれません。
しかし、この方々の後ろで女子高生が大笑いしている様子を見ましても、
ポリリズム的なものって、なんとも言えない魅力持っているんでしょう、と思う。
Perfumeと違って、この方々は私たちを笑わせてくれるだけですが、それにしてもこれだけ笑わせてくれるということは、パフォーマンスといて優れているのでしょう。
彼らが私たちを笑わせたかったかどうかはわかりませんが、もし、笑わせることが目的だったとしたら、彼らはちょっとした芸人並みの実力です。
「大の大人が、大の大人が・‥おーっおーっ、うりゃホイ、うりゃホイ」
もし彼らのダンスが、もっと女の子の歌とイメージ的、リズム的に寄り添うことができたら、
歌とダンスのあいだには従属関係ができてしまう、歌と女の子に従属する男たちという図が見えるはずなのですが、
両サイドがポリリズム的なので、男たちの存在感の独立性が高くなり、女の子とアイドルポップ歌以上の存在感を醸し出していないでしょうか?
この破壊的な笑い(実際にアイドルポップの世界を完全に破壊してくれていますが)、これって力学構造的にはパフュームのやっていることと同じ、彼女たちの音楽との関わりとほとんど同じだと私には思われます(尤もパフュームの場合は、破壊的というよりは建設的ですが)。
あと、わたし、オタ芸に好意的な人間なんです。
基本、日本人ってブラジル人みたいに自然に踊り出せるような民族じゃないですから、自然にノってる風を装って中途半端なダンスしているの見ると、私辛い。そんではたからどう見られているかをチラチラ気にしているようなのも辛い。
せっかく踊るなら、そういう中途半端なんじゃなくて、汗かくまで踊りたいじゃないですか。
それに、
ダンス得意になるには、数通りのパターン覚えないと無理なわけでして、
そういう実はダンスの本道というのを、限りなく不器用に実践したのがオタ芸であろう、と、私は思う。
彼らは、笑われていますけれども、
それでも普通の日本人よりも遥かに、ダンスの精神理解しているというか、踊ることができている訳です。
遥か彼方で、目もかすむくらいですが、彼らの延長線上にはパフュームのダンスが有る、と。
Perfumeのライブって口パクでダンス主体ですから、彼女たちのパフォーマンスに乗せられることというのは、一緒に歌いだしたくなることではなくて無理でもいいから一緒に何か踊ってみたいという衝動を感じることだと思います。
日本人って自然に踊りだすような民族じゃないです。そして、そんでも、そんな日本人をオタ芸レベルでもいいから踊らせてしまう彼女たちはすごい。
普通のライブだとパフォーマンスの主体は歌ですから、踊りだしたいとなるよりも一緒に歌いたいとなるはずなんで、
観客に強制的に歌わせるフレディーマーキュリー。7分程度の箇所。
「デーオ」
「ディーラララヂィラララデオ」
かれは、ステップを強要したりはしません、あくまでも歌を求めます。
Perfumeの場合だったら当然の如く、歌ではなダンスを求めます。
フレディーの煽りに合わせて、両手を上げる10万の観客。
いままで、これ、感動的なシーンだと思っていたんですが、
パフュームを見てしまうと、イギリス人がオタ芸やっているようにしか見えなくなってきた。
パフュームだって、東京ドームで5万人ライブやりますし、
おこがましい言い方ですが、世界が見えたような気がしました。
あの続きでパフュームが歌う歌詞が、ほとんど「チョコレイトディスコ」の連呼だけ。
それでも、ライブエイドのクィーンみたいに盛り上がってる。
ポップミュージックってなんだろう?単なる音やリズムやメロディーではなく、もっと複合的なイメージの集合体なのだなと実感させてくれる。
[パフューム]才能とは失語症的形態をとる
人間とはどういう生き物と定義できるのだろう?
獣の肉をとって喰らうことの多かった民族は、このようなことをなん
どもなんども考えた。
二本足で歩くのが人間だ。
言葉を使えるのが人間だ。
道具を使えるのが人間だ。
理性があるのが人間だ。
だいたいそういう結論に至ったのですが、
つまり人間とは、二本足で歩き、言葉を理性的な道具として用いることに秀でた生き物ということができるでしょう。
そして、人間の社会で生きている限り、二本足で歩くことも、言葉を理性的な道具として用いることも、わりと凡庸な印象を与えるに過ぎません。
それらは、人間が生命をほしいままにしていい下等な動物との比較において突出したものであり、
人間は平均的にそれらの能力に優れているのですから、
なかなか言葉を理性的な道具として使うことで卓越した印象をほかの人に与えることは容易ではありません。
それと比べると、本来非人間的な表現である非言語的表現力に優れている人は、「才能がある」とみられることが実に多い。
歌に優れている、絵に優れている、踊りに優れている。味覚と料理に優れている等等。
パフュームの目立つ点というのは、三人とも美脚という、ある意味人間としての理想的な部分でもあるのですが、
わたしには、なんといっても、作曲作詞を人任せ、声は電気処理され、ユニゾン多用されるので、個人の肉声はほとんど無視される、パフュームの三人は、失語症的にステージの上に立たされ、自分たちの思いを観客に伝える為にダンスを道具として用いている、そのことが非常に興味深い。
それだけ人間として、コミュニケーションのツールを奪われた状態で、一体彼女たちには何ができるのだろう?彼女たちは何をやっているのだろう?と考えるのですが、
参考までに、歴代のアイドルたちと比較してみます。
アクターズ系芸人としてパフュームの先輩に当たるspeed.
前の二人が交代で歌い、後ろの二人は踊りだけというユニットで、後ろの二人だけに着目すれば、失語症的な活動を強いられていると言えるかもしれませんが、それでも、単なるバックダンサー的扱いに私には見えます。
ユニットとしてちゃんと歌は聞かせていますから、ダンスで訴えるものは特にないのではないでしょうか。
それ故に、彼女たちのダンスは、所謂かっこいい踊り、それもアメリカの黒人文化から派生したかっこいい踊りの輸入品という記号のように見えます。
伊藤蘭 がかしゆか 田中好子 があーちゃん 藤村美樹 がのっち に見えないこともありませんが、
彼女たちのやっているのはダンスというより、歌の振り付けでしょう。
それゆえ、大した情報量がない、歌と比べると圧倒的に情報量が少ないのですが、
それでも、「あいつはあいつは可愛い年下の男の子」の部分の変な振り付けは、歌詞を説明するものというよりかは、対位法的なものと感じられます。
キャンディーズが高校生大学生に人気があり、ピンクレディーは子供に人気があったとのことですが、
擬似恋愛の対象としては確かにキャンディーズの方がまともに見えます。しかし、芸人としてのインパクトで考えるなら、ピンクレディーは、確かに歴史に残るレベルでしょう。
歌も衣装も振り付けも完成度は低いし、オゲレツなもんなんですが、
それでもパフュームの元ネタは、やっぱ、これだろと思わずにはいられません。
野球をテーマにしている点で、ピンクレディーの『サウスポー』を思い出させますし、ベタな歌謡曲調もピンクレディー的です。そしてなにより随所に見られるつなぎ的ダンスのモチーフもピンクレディー的です。
パフュームのダンスとはなんなのかということを他のアイドルと比べてみると、
とにかく一生懸命踊る、言葉を伝えられない代わりに動作で伝えるという失語症的な才能の現れを見ることができますが、
ピンクレディーと比べてみましても、パフュームのダンスには、言葉の代わりになるくらいのわかりやすい意味付が可能な箇所が多い。
喋れない人がゼスチャーで意思を伝えているような箇所がたくさんあるということです。
彼女たちは、最初からダンスでの意思の疎通にかけているようなところがありまして、その日効率な点を補うためにひたすら一生懸命に踊る、そのひたむきさが、見ていて泣けてくる感動につながっているんだろうか?今日はそんなふうに考えてみました。
Spring of life
Perfumeの新曲って、これよりいいですよね?
間奏が似てるんで、世界戦略上、狙ってきたなって感じがするんですが、Perfumeの方がはるかにいい曲ですわ。私の感想に過ぎませんが。
しかし、ビートルズって、ルックスどうなんですか?
Perfume以下でしょ?
そんで、四人はアイドルでしょ?
男も女も顔ってこの程度で十分なのかな、という気にさせられる。
私、昔から、変なダンスが好きなんですけれど、
このPVだと、ダンス、変なんですが、所詮、リズムに合わせて体を動かしているだけでしょ?
まず最初に曲ありき、で、それから曲に合わせてダンスがある。
それと比べると、Perfumeの場合は、曲ができたら、そこにもうひとつの旋律を作るみたいに振り付けを構成していく。
そんで、そのもうひとつの旋律であるところのダンスを、音楽にぶつける。
ダンスが曲に従属していないんですね。いわば、Perfumeってのは、楽器なんです。
それも、楽器屋さんに絶対売っていない特別に優れた音色の楽器。
人間の五感って、そんなに明確に区分けされてないんですよ。味覚なんて視覚や触覚と不可分ですし、聴覚だって視覚の干渉をものすごく大きく受けています。
だから、中田ヤスタカ氏の音楽の上でPerfumeの三人が踊ると、彼女たちの踊りが音楽をかき回しているように感じられるのですね。
普通は、今までの音楽では、
視覚刺激、ダンス、振り付けは、音楽に従属したものだったんですけど、
Perfumeの場合は、ポリリズム的というか対位法的に強烈な個性を発揮する動きだったんです。
だから、彼女たちが踊ると、もうひとつの楽器がものすごく濃い旋律を音楽の上に投げかけているように感じられる、少なくとも私にはそう感じられます。
彼女たちが踊りだすと、なんていうかな、
音楽が、踊り始めるんですね。
すごい妙なグルーヴ感が生じるんです。
実は、私たちの五感って、あんまり区別がはっきりしていなくて、
聴覚刺激と視覚刺激を同等に扱って、勝手に頭の中でシンフォニーを形成しているみたいです。
ベースとキーボードがハーモニーを形成するみたいに、ダンスの動きとエレクトロポップがハーモニー形成しているんですよ。
尤も、こんなことは、映画やっている人たちには、とっくの昔から当たり前だったんだろうけれども、
それでも、しかし、4分弱のポップミュージック、100回200回と繰り返えして聞かれるポップミュージックで、このように映像と音楽を融合させる「商品」が成り立つというのは、私にとって、ものすごい驚きでした。
そして、いまだに、ほとんど、誰も、この構造が分かっていないんですね。
どうして、Perfumeだけがこの奇跡的なことが可能なのかが。
振付の方が好きな映画、
私も、昔、渋谷で見ました、この映画。
『spring of life』で背中についているコード、
エヴァンゲリオン的なものに思われました?
私には、へその緒に見えました。
今までの居心地のいい日本というホームから、ろくなことの待っていない辛い海外へ出ていく、失敗しても構わないからとことんやるだけやってみる、そういうメッセージを、私は読み取ってしまいました。
Perfumeファンの皆様方は、どうでしょうか?
そして、そういうへその緒とか日本が子宮であるとか、そういうことは外国の人たちにとってはどうでもいいことなのですね。それ故に、このPVの印象は、まず、外国狙いで、手堅い、 私はそう感じました。
そして、第二印象は、世界進出への心意気を示したということなのでしょうか。
おっさん、じいさん世代にとっては、アメリカとイギリスのトップ10に日本人の曲が入るってのは、夢ですからね。
それこそ、サッカーワールドカップで日本代表が活躍するみたいなもんです。
Perfumeはそれ期待されてるんですよ。そして、多分、それやっちゃうんですよ。
彼女たちにそういう上昇志向がないと言っても、彼女たち周囲の人間って、みんなそれを望んでいるんですよ。マドンナよりもビルボードチャートの上に来ることを。
『テルマエ・ロマエ』 実は最近映画全然見ていないんです
もう二ヶ月くらい経つんですが、『テルマエロマエ』を見まして、
面白かったですよ。
阿部寛、上戸彩っていいタレントなんですけど、如何せん、ろくな映画に出ていなかったんですが、
この映画では、よかった。
映画とテレビドラマの違いってなんなんだ?と考えるんですが、
セットの金のかかり方、撮影時間の長さ、編集の仕方、等等あるとは思いますけど、
何はともあれ、『ROMA』のセットが凄い。あれ、維持費だけでいくらかかるんでしょう?
『イントレランス』のセットを壊す費用がなかったとか、『キングコング』のセットは『風と共に去りぬ』に流用されたとか、ありますけど、
そんくらい馬鹿でかいセットだと壊すのに金かかるらしくて、でも、かと言って、維持管理していくのだって楽なもんではないでしょう?
中国で、野球場の維持管理費が捻出できずに落成後数年で取り壊したとかいう話もありますし。
『ROMA』のセットの中を、平然と歩いている阿部寛には衝撃を受けました。
そんで、また、ほとんど違和感ない容貌しているんですわね。
では、上戸彩はと申しますと、これが意外に違和感がない。
そりゃ、この時代には、かすかながらにも中国とローマでは行き来がありましたし、
中央アジアの騎馬民族で私たちみたいな容姿の民族がローマと交流していたことも推測されます。
極めて希少だとはしても、上戸彩みたいな顔した人が古代ローマの街をうろちょろしていたとして、別に何の疑問もありません。
全編日本語で通しているんですが、
よくよく考えてみりゃ(というか、私の場合は長年思っていたのですが)、ハリウッドのローマ史劇って、舞台が古代ローマであるにもかかわらず、登場人物が金髪の北欧系だったり、英語話したり、それもシェークスピア調の芝居がかった英国英語だったりで、
あのイタさが分かっていれば、『テルマエロマエ』なんて、ものすごく謙虚で、そして爽快感に満ちています。
それに、現代のイタリアが古代ローマを映画化したところで、
日本の大河ドラマみたいなもんでしょう。歴史ズキからみりゃ、やってることは『テルマエロマエ』と大差ないでしょう。
それらはいいとしまして、
わたし、この一年半ぶりくらいに、映画の画面が右をむいているか左をむいているかを全く気にせず見ておりました。
というのも、このブログ書く事に飽きてしまったというのもありますけど、
座った席が前から二列目で、
画面でかくなればでかくなるほど、視線を左右に誘導されることに対して観客は無自覚になるもののようです。
小さいモニターほど、画面の進行方向が切り替わったのがよく分かります。
テレビで見てるよりも、映画館のでかいスクリーンで見ている方が、その気にさせられてしまうというのは、こういう点からでもあるのでせう。
「マンガの見方」 むしろマンガの方が面白いと思うようになりまして、
映画のフィルムって一枚一枚の写真を巻にしたもので、それを一秒に24マイのスピードで見せられると動いているように見えるものです。
基本的に、前のコマってのは過去を表し、まだ見ていないあとに来るコマは未来を示します。
なに当たり前のこと言ってんの?と思われるかもしれませんが、
過去と現在を編集で入れ替えるような作品以外は、
時系列順にコマはならんでいます。
漫画の場合はどうでしょうか?
古典的なマンガは、このように視線を動かしていけば
絵巻物のようにページの上を時間が流れています。
ただしかし、マンガのコマの構成は、戦前の『のらくろ』のように単調なものではなく、
このパターンが多用されます。
こうなると、どの順序で読んだらいいのかと、なれない人の場合は戸惑ってしまうのではないでしょうか?
マンガ読めない高齢者って結構いますし、外人で読めない人も結構います。
その理由の一つが、このコマの順序なのでしょう。
慣れている日本人にとっては、
この順番で読めば オーケーとなるんでしょうけど、
実際はそんなに単純な問題でもありません。
つい、このように視線動いてしまいません?
例えば、このマンガですが
左ページの縦に並んだ四コマ律儀に読んでから、その四倍の面積のコマ読み始めます?
セリフのフキダシはともかくとして、
縦に並んだ小さいコマ、ちまちま読み進める前に、どうしても桜木の「すげー、満点だよ。やればできるじゃん」ってコマが目に飛び込んでくるでしょう?
この大小あわせていつつのコマには一応時系列が存在するはずなのですが、
実際的に読者がどのようにこのページに関わっているかということを考えると、
時系列がグチャグチャになっているんですよ。
縦のコマと横のコマを交差させられると、こういう読み方ついやっちゃうんですよね。
今があって、少し先の未来があって、そのあとに今より少しだけ先の未来がある。
もしくは、現状があって、結果があって、そこに至る道筋が見えてくる、
それが、現実のマンガの読まれ方なんですわね。
ドラえもん12巻ですが
ページを開くと、普通の人にとっては、一番大きく描かれたコマが最初に目に飛び込むんですよ。
それから、常識に従って、コマについているフキダシを読んでいくことになると思うんですが、
右ページで言いますと、まず、ガチャガチャ動いている鎧を私たちは見てしまいます。
そこで、既に何か不吉なことが起きていることを察知するのですが、
それが何ゆえに起こっているのかという説明が、本来先に読まれる部分でなされます。
つまりこの鎧とは、幽霊だという説明ですが、
映画の場合だと、進行方向の切り替えによ、って、観客にこれからよくないことが起こると予感させるのですが、
マンガだと、実は、先に未来を見せてしまうことで、読者に未来の予想図としての伏線を与えてしまっています。
これははっきり申しまして、小説の伏線のあり方なんて全く問題にならないほどのラディカルな伏線の貼り方です。
さらに申しますと、マンガってのは、
ページ開いた時に、そのページの一番最後のコマまで、自然と目に飛び込んでくるもんなんですね。
だから、本当に場面が一変するようなコマは、次のページに持ち越されることになります。
この場合だと、トビオが死ぬコマは、次のページまで伏せられています。
手塚治虫は、それまでのフクちゃんとかのらくろのような絵巻物の延長にある漫画のコマの構成を、映画の手法を取り入れることで今の形に持っていった人物であると私は思っていますが、
この手の縦横交差の構図を大量に持ち込んだのは多分彼が初めてなのではないでしょうか?
右側のページでは、縦に三つコマが並びます。さっそうと未来の浮遊自動車をドライブするとビオですが、
三つ目のコマで、車の向きが転換しています。
これは典型的な映画の手法で、
このようにコマを並べられると、
車が方向転換したか、、もしくは、それまでの順調だったドライブがなにか悪い方向に向かい出したかのどちらかに思われてしまいます。
そして、左ページの縦長のコマ。
「キュー」という擬声音に釣られるように読者の視線は一番下まで降りてしまいますが、
その際に、どうしても、私たちは、迫ってくるトラックのコマよりも先に、
絶体絶命の表情のトビオのアップが目に入ってしまいます。
彼が窮地に陥ったことをあらかじめ分かった上で、視線はもう一度上の方に戻り、小さなコマをよっつずつ上から下へと見下ろしていきます。
?トビオは危険な状態になっている。それはどうしてか。
?トラックが迫ってきたからだ
?それに対して彼は対処できなさそうだ
?さらにトラックが近づいて、
?もうトビオはダメかもしれない
このように小さなコマは四つしかないのですが、実質五つ分読まされることになるわけです。
伏線の効果ですが、
もしあなたが明日死ぬことが分かっているとしたら、怖いでしょう?
もしあなたが明日死ぬことを知らなかったとしたら、死ぬ間際まで何も恐れないでしょう?
死ぬは一瞬ですが、そのことをくよくよ妄想することが恐怖と狂気を招来するのでして、
このようなシーンを盛り上げるには、伏線というかフラッシュバック的な技法がどうしても入用になります。
マンガはタテヨコのコマを交錯させることで、視線の流れを心地よいものにし、楽しいリズムを生み出していると思われていますが、
それと同時に、紙面上で飛び跳ねる視線というのは、読者がマンガの中の時間の中れを自由に飛び跳ねる如く行き来していることと同義なのかもしれません。
『サルベージ・マイス』
谷村美月の主演映画であるということ。
ご当地映画で、ご当地での先行公開から全国公開まで半年のブランク。
ネット上での酷評。
などなど、見る前から相当に覚悟を決めていたんですが、
近所のツタヤとゲオでレンタルしてないんですよね。
そんで、宅配レンタルしてまで見たんですが、
まあ、泳ぐ前に準備運動はするもんだなというか、
『サルベージ・マイス』見る前には心の準備しておくもんだな、と。
この記事のBGMにどうぞ。
映画の製作者、何考えてたんだろうな?と。
これでいけると思ったんだろうか?
脚本ができた時点で、こりゃだめだろと思わなかったんだろうか?
ていうか、それ以前に、対象年齢何歳で、どれだけの収入上げる目標があったんだろうか?ビジネスとしてのつめはどうなのよ、と。
一応娯楽作品ということで、世の中に数あまたある役所の観光課が一枚かんでいるご当地映画とは一線画しているかもしれません。
泣けないのに泣かせようとするとか、無駄に郷愁を呼び起こす演出がないのは、いいところなのかもしれません。
しかし、まあ、ご当地映画というか、田舎自慢というのは、その土地のものでないとしても、傍で聞いているだけだとしても、こっぱずかしいというのは何でなんでしょう
実のところこの手のご当地映画一番すきなのは、東京の人たちで、日本で一番でかい町だから、自分たちが田舎自慢やってることに気づいていないだけなんでしょうな。
『サルベージ・マイス』
何を語っていいのかよくわからないと子なんですが、
谷村美月、いったい何やってんの?って感じです。
最近めっきり減った主演作品ではないですか。
もうちょっと役について煮詰めてくださいよ、とか思うんですけど、
脚本ともども、谷村美月自身自分の役柄について、気分が乗っていないのがよくわかる。
運動神経いいのはわかるんですが、空手家の長野ジュリアと一緒に並ぶと、まー、強そうには見えません。
なんで谷村美月この映画に出なくてはならなかったのだろう?
『リアル鬼ごっこ』が名作に思えてしまう出来なんですが、
わたし、谷村美月のかなりのファンなんですが、
彼女は、主役向いていないのかなとかなり本気で思うようになってきました。
やはりというか、お約束事の、緊縛シーン。
このためだけに出演したんだろうか?と下種の勘ぐり。
谷村美月のことはなかったことにして、
長野じゅりあの主演作品と意識を切り替えてみると、
それなりに見所あるんですね、この映画。
ロンドンオリンピックで日本が金メダルを獲得したのが、女子レスリング、女子柔道と、女の格闘技ばかりで、
なんだかなぁ、と思っていたんですが、
まあ、ナデシコもサッカーで格闘技っちゅやあ格闘技なんですが。
そんで、ついそれら選手を思い浮かべてしまい、
「空手美少女?長野じゅりあ?なんじゃそりゃ?」
と思ってしまうんですけど、
まあ、空手という付加価値を踏まえてなんですが、
けっこう可愛い。
鼻の詰まったような声も、聞きなれると、かわいらしく感じる。
空手ポーズのときの腰の入り方がいかにも本物。
その上、よく見るとパンチラ。しかも黒色。
下手な演出、下手な編集、とか思いながら見ているんですが、
このパンチラひとつで、「おおっ」と感心してしまうのが男の情けないところ。
格闘技やってる割には、体細いように思われます。顔面もつぶれてないし。
それでも、女の芸能人一般と比べると、がっちりしているんですが、
それにしたところで、体重絶頂期の谷村美月のほうがたぶん太かった。
わたし的には、女の太ももってこのくらいないと興味感じないんですよ。
なんか、続編に含みもたせたようなラストでしたけど、
まあ、ないだろうな。
わたしの近所のツタヤとゲオに置いてないという時点で、とことん商売として失敗している作品のようですし。
この映画、長野じゅりあ以外は非常に残念な作品なんですけど、
何が残念なのかというと、
意味もなく谷村美月にキャスティングしたことがでかいのではなかろうか。
長野じゅりあ中心にすっきりまとめるべきだったんでしょう。
ラストで、ももクロの歌が流れます。
おそらくこのままやみに埋もれるだろう『サルベージ・マイス』野中で唯一日のあたる場所を感じさせるももクロの歌です。
この歌が流れると、救われたような気になるのですが、
続編作るんだったら、
長野じゅりあ+ももクロのメンバーの戦隊ものにしたら、相当受けるんではなかろうか?
ももクロは最近忙しそうですけど、
長野じゅりあの次回作には、そういうノリを期待したいところです。
『おおかみこどもの雨と雪』
わたし、谷村美月のファンなんですが、
映画を見ていて、彼女がどのキャラの声担当してたのかが分かりませんでした。
見ている間、ずっと、雪の声が谷村美月だと勘違いしてました。
そういやあ、彼女の映画初出演作での役の名前もユキでして、
感慨深いな〜と思いつつ見ていたんですが、
そんで、いつもと違う、思春期的な幼さの残る声で、
さすが谷村美月、演技力半端ねえ、とか恥ずかしいこと思っていたのですが、
ぜんぜん違う人、黒木華さんでした。
谷村美月が担当した、土肥の奥さんって誰だったんでしょう?
超絶チョイ役だった模様です。
てめえ、細田、いい加減にしろよ、谷村美月が声やってるっていうから、それなりの役だと思って勘違いしちまったじゃねえか、と怒りたくもなったんですが、
この映画、演出がどうの出来がどうのという以前に、企画の段階でまず非常にすばらしい。
観客が何求めているのか、どういう需要があるのか、それに対してどのような作品を作れば、出資者はニコニコしてくれるのか。そして観客は満足できるのか。ひいては、そのような作品を成立させることは今後のアニメと映画業界の発展に寄与できるはず、ということをすべて満点に近い形で示した企画が、この映画でしょう。
見てるとすぐ分かると思いますが、ジブリ映画の亜流?という雰囲気ですし、これと似たテイストのジブリ映画って、『隣のトトロ』『思いでぽろぽろ』『もののけ姫』など、瞬時にいくつも思いつきます。
去年は『コクリコ坂からこんにちは』ってジブリ映画がありましたけど、今年は、ジブリ映画ないんで、
その穴を埋めてほしいって要望は映画会社にとっては当然のこと。
んで、ジブリが夏休み映画で果たしてきた役割ってのを考えると、
林間学校の代替だったり、ちょっとした肝試し大会の代替だったりします。
この不景気に子供つれて、山の奥までキャンプにいけるかよという親御さんや爺婆にとっては、たかだか一人千円程度でそれら自然に親しむ行為の代替ができますし、
ついでにためになる知識を得たり、人生について哲学するきっかけつかんだりできるんですが、
それらを、ことごとく満たしうる規格になっております、この『おおかみこども〜』
ついでに言うと、ご当地映画としても、ご当地の名所や特産品を連呼して観客赤面させるようなところもありません。
舞台は、どこでもよい、架空の場所でもよいのでしょうし、
現実にはどこかということをはっきりいったりはしないのですが、
明白に、これは富山県の剣岳とその周辺というのが分かります。
観光客誘致できたり、都会の老人の移住希望者にアピールできたりでで、地元の役場ホクホクでしょう。
地元企業巻き込んだビジネスとしてご当地映画が成り立っているとしたら、そういう人たちの希望はしっかりかなえてあげなきゃだめだとわたしは思いますよ。
「俺はとりたい映画とる。金出すまでは田舎もんの言うこと聞いてやるけど、あとはシラネ」みたい焼畑ご当地映画はだめだろう、と。
この映画、細田守氏の出身地ですから、逃げも隠れもできないわけで、その点でもプレッシャーはあったと思われますが、
このご当地映画の問題も、ほぼ完璧にクリアしています、この映画。
演出がどうのとか、監督の力量がどうのという前に、非常によくできた企画であり、
この企画の時点で、ほぼ勝利がきまっていた映画だ、とわたしには思われました。
『おおかみこども〜』 実は夢オチ
夢オチって言いますけど、映画って、監督と脚本家を軸とする小集団の妄想の集合体みたいなもんでして、
その妄想に観客がのれるかのれないかでギャーギャー言ってるだけのものです。
もともと夢見たいなもんなんですよ。
だから、オチとしてそこに
「これは夢でした、チャンチャン」みたいなこと言わなくてもいいはずなんですよ、ほんとは。
『スターウォーズ』にしてもそうでしょ。
誰だってチュバッカーとかダースベイダーがいるわきゃないことくらい分かっております。
荒唐無稽な夢物語であることくらい分かっているんで、最後に「ルークの冒険譚はじつは一オタクの妄想でした、チャンチャン」みたいなエンドクレジットって必要ないわけです。
そう考えりゃ、『おおかみこども〜』もありえねえ、こんなの!とか思えてもいいじゃありませんか。
おおかみこどもよりチュバッカーのほうが変だと思いますよ、わたしは。
じゃあ、この映画に夢オチを示唆する要素が一切ないかというとそんなことはなくて、
このブログでさんざ書き散らした『映画の北枕』のはなしですが、
[『風の谷のナウシカ』 映画の中の北枕
]
日本映画?ガラパゴス?
この「北枕」の観点から見てみますと、
この映画の冒頭のシーンですが、
宮崎あおいは、物語の進行方向と逆に上半身を起こします。
だったら、あのお花畑を大沢たかおが歩いてくるカットは、
こうあるべきなのでしょうが、
画面進行のセオリーに合わせて、
まず、「北枕からのゾンビ起床」を主人公にさせることで、
これは夢物語であることを画面に語り、
次に、画面の進行方向の向こうに大沢たかおを登場させることで、
この物語の目的は、愛情であるというメッセージが示されます。
それゆえに、最初のシーンで半身を起こす宮崎あおいにわざわざ後ろ振り返らせるわけです。
わたしの言ってることって、冨野よしゆきがすでに『映像の原則』という本の中でほぼ語りつくしてますが、
その冨野よしゆきが、この映画を絶賛してますので、
画面の進行方向の法則的にも、この映画の演出と編集は確かなものなのだろう、とわたしは思うわけです。
アンサリーの歌、有名役者の声優への選択なども、抑えるところをしっかり抑えている感が強い。
宮崎駿が引退したら、そしてジブリが解体したら、細田守を軸に日本のアニメ界は再編されるんだろうか?とも感じた。
すくしばかり、びっくり
このブログ、半年ほど、書いていないんですが、
別に日々のニュースについて書いてるわけでもないんで、
名作や駄作をついてグーグると、このブログにたどり着かれる方もいらっしゃるでしょうが、
それにしても、数日前に、どなたかがツイッターで取り上げてくれたらしくて、一気にページヴューが増加。
ブログの名前が「映画の見方」という実にありきたりで、奇をてらったところの少しもないものなのですが、
今現在、「映画の見方」でグーグると、瞬間風速的にこのブログが一番ですよ、おお。
町山智弘氏の『映画の見方』よりも上ですわ、ははは。
ブログ書かれている方で謙虚な人は、
「読んでくださってありがとうございます」とかかれるんですが、
わたしは、そういうまともな人間でもないので、
「こっちはただで知識与えてやってんだから、有難うをいうのはそっちのほうだ」と思うタチなんですが、
「研究ブログの鑑」とか褒められると、やっぱうれしいものです。
思わず「読んでいただいて有難うございます」みたいなこと言いたくなるんですが、
今までの自分の主義主張人生観にそぐわないので、やめときます。あしからず。
#ゆめとマンガの類似性
のび太の部屋の本棚って、本が詰まっているんですが、背表紙の文字が書き込まれることはほとんどなくて、
一応、本に見えるものが詰まっているという情報が与えられているに過ぎません。
それらの「本」は読まれることもなく、手に取られることもありません。
それゆえ、どんなことが書かれてあるどんな本か、ということはどうでもいいことで、ただ単に本に見えればそれでいいはずです。
つまり、このマンガの中で、本棚に本は存在するのか?というと、本らしきものは存在するのだけれど、それは、家具屋の本棚の中にあるような張り子の百科事典のようなものに過ぎないと言えるかもしれません。
現実の本棚、例えば公立図書館の地下書庫なんかの何年も放置されているような書架でさえ、そこに詰まっている本は、実際の本です。
私が生涯を通してその書架の本を一冊もてに取らなかったとしても、更には図書館の地下書庫の存在について無知なままであったとしても、
本は存在するんです。
でも、マンガの中では、物質はこのような現実のあり方的には存在しないものでして、
作者によって、
物語の進行上、どうでもいいと考えられた場合、もしくは読者に注意を惹きつけさせる必要がないと考えられた場合は、
のび太の本棚のように、背表紙の存在からいちおう「本」があることを示す記号みたいな抽象化されたものになってしまいます。
もしくは、全く書かれないこともあります。
藤子Fは、畳のへりをほとんど描くことをしません。廊下の床板はしっかりと描かれるのですが、畳の部屋だか絨毯の部屋だかについてはどうでもいいという感じです。
また、あって当たり前と考えられるものに対しては、たいてい省略されます。
部屋の天井って、マンガにはなかなか描かれることがない。
それは、部屋の床や壁を描写したら、天井って絶対あるもんだと私たちは思い込んでいますから。
それと比べると、食事シーンで箸やスプーン、食器が省略されることはまずないですね。ほんとに律儀に漫画家は、それらのものを書き込んでいます。
食事の光景というのは、どうしたところで人の気になって仕方のないものなのでしょう。
新しめのマンガを見ていて思うことなんですが、たいていのマンガはとにかく細部が描き込まれていて、ドラえもんのようなスカスカな絵のマンガもなかなか少なくなりました。
風景の写真資料を大量に集め、時にはロケ地を選定したりして、それらをアシスタントを大量に使いこなして描き込んでいくのでしょうけれども、
むかしのマンガは、何が描かれているのかがポイントだったのに対して、今のマンガは何が描かれていないのかのほうがポイントのような気がします。
『ひょうげもの』
このマンガの場合、室内装飾、衣装、調度が興味の対象なので、細部を執拗に描きます。それゆえ、人物を強調させる時には、スポットライトを当てるかのように、周囲を白く塗りつぶしています。
こうなると、映画の撮影と近しいものと言えるでしょう。
『ひょうげもの』の世界では、まず、細部が歴史的事実として確固に存在します。
描き込まれたマンガは、作業的には大変なのでしょうけれども、
何を描いて何を描かないかの取捨選択を放棄したようなしょーもないマンガが多いのも事実でして、
どっかから写真を持ってきて、それ写しただけの背景や細部を見せられても、ああ、またか的な感慨しかわかなくなりました。
そういう昨今のマンガのありかたの中で、大友克洋的な表現を見せられると、「おおっ」と驚かされます。
大友克洋、どんだけ酒瓶描くの好きなんだよ、と思わせられるコマ。
工業製品の規格化された酒瓶なんてのは、通常は人の注目を集めたりしないものです。
スーパーに行っても魚売り場や野菜売り場と比べて、飲料コーナーってあんまり面白くないでしょう。
それをこれだけ執拗に書き込まれてると、異様なバランス感覚が生じます。
もし、あなたがこの現場に居合わせたとして、これからどの酒を飲もうかと棚の酒瓶を物色していたとしましょう。酒瓶の壁をなんどもなんども視線を行き交わせることになると思うのですが、
その視線の有様を、ペンの先によって表現しているのがこのコマなのではないでしょうか。
マンガってのは、読者の注意を誘導したい箇所は描き込むものらしいです。
そして、私たちが主観的に物事を眺めている時というのは、自分の都合で、目の前の事物を無視したり強調したりしているようでして、
この無視と強調の仕方がその人の意識のあり方であり、その人の個性であると考えると、
マンガというのは、知らず知らずの内に、他人に物の見方を受け入れさせる表現方法なのでしょう。
こちらの先生の場合、
描き込みもすごいのですが、それと同様に省略もすごいです。
学校の描き方にしても、端っこに向かうにつれ興味が薄れていくかのように線が破綻していきます。
この絵の中に何がないのだろう、と考えるに、
色彩がないのではないか?
スクリーントーンのようなもので地面と空の色分けを行なったりはしませんし。
それに、雲の描き方から見ても、空について真面目に描くつもりがないことがわかります。
ドラえもんの本棚の話に戻りますが、
夢とマンガは似ていると私は思っているのですが、
夢の中で、その夢の進行上どうでもいい本というのは、手に取られることもなく背表紙を読まれることもありません。
「そこに本がある」という情報が伝われば、その本はそれ以上存在する必要がない。
そして、私たちは、夢を見ている中では、そのようなことを検証することができません。
マンガの場合は、しつこく何度も繰り返し読むことができますし、所詮他人の主観的光景を魅せられているわけですから、
「この酒瓶へんだな」とか「この空へんだな」ということが、はっきりとわかります。
しかし、自分が寝ている時に思い描く夢に関しては、それが一過性のものであり、また、自分にとってなじみのよい自分の無意識的妄想なのですから、
「この酒瓶へんだな」とか「この空の色へんだな」ということに気づかないまま朝の目覚めがやってくるのではないでしょうか。
私たちが寝ている時に見る夢は、実は松本大洋のマンガのようにスカスカなものであり、いたるところに空白や、雑な省略に満ちている。もしくは大友克洋の漫画のように局部的に強調されたアンバランスなものである可能性が高い、私はそう考えています。
大友克洋や松本大洋のマンガを見て、何か懐かしい、どこか見覚えがある世界だと感じたことから、わたしは夢の世界のあり方について考えることになりました。
そして、これらのマンガを読むことがなかったら、私は死ぬまでこんなことを考える切っ掛けもなかっただろう気がします。
催眠術 トランス
「あなたは眠くなる、眠くなる‥・」
――あったりまえやんか、5時間しか寝とらんわい(日本人は先進国30ヵ国中2番目に睡眠時間が少ない)
「あなたは、お腹が減ってきた、もうペコペコで、お腹がグーグーなっている」
――そりゃ、もうすぐ12時だがね、お腹も減るわさ。
「はい、体が、ぐらぐらしてきた」
――片足立の不安定なポーズをとらせといてそれはないやろ。
あほらしい話ですが、これが催眠術の基本です。
当然の成り行きでそうなるはずのことを、催眠術師が命令した故にそうなったと錯覚することで、催眠術にかけられる方は、段階的に深みにはまっていく。
ヒプノ・ボード。単純な渦巻き絵だが、これを一定速度で回されると、目が焦点を合わせることができない。これだけを見つめていると、焦点が合わせられない上に、白黒の単調なコントラストが目に残像として数秒間残り、視覚が歪められる。これ自体は、当然のことなのだが、
催眠にかかるとは、この作為的な方法で朦朧とした状態におかれたことにたいし、その視覚の朦朧さを自分が眠くなって意識レベルが落ちてきたからだと勘違いすることである。
私たちは、このような単純なトリックで、眠気を催されるとは想定していないから、こんな単純な方法で催眠に導かれていく。
もちろん、このヒプノ・ボードを使う場合は、周囲を暗くして、この渦巻き模様以外が被催眠術者の目に入らないようにするのがより効果的である。
また、BGMは単純で短い二つの旋律が延々と交互に繰り返される。このような反復メロディは円回転のイメージと親和性が高い。
聴覚からの催眠はこのように行う。単調な旋律、単調なリズムのを何度も繰り返し、聴く者に時間の感覚を徐々に麻痺させていくのだが、二つの旋律を組み合わせる際に、特に片方の旋律を歪ませて曇った感じにしてしまう。
音域的には、耳につきやすい方をよりはっきりと鳴らし、耳につきにくい方を歪ませると、より効果的だ。そうすると、音楽が恣意的に歪められていることに対し、聴く者は注意が向きにくくなり、このトリックに気がつかない。
これを聞いていると、自分の聴覚が鈍ってきたように感じられ、意識が朦朧としてきたと錯覚しやすい。そうなると被催眠術者は半分眠った時のようになりがち。
この場合は、汽車からの光景を視覚情報に使っていて、これは単調な光景の繰り返しであり、心を落ち着かせ、秘術者をここちよい眠りに導く。
人を安眠に導く催眠術には、どこにも何一つ悪意が存在していない。いわば白魔術のようなもの。
これらを組み合わせ、実際の対人場面で用いるとどのようになるだろう?
これを見ていると、軽い催眠術にかかるのは普通であるが、どう転んだところで大した影響はないのでご安心を。
『竜崎式催眠術』
これは催眠術の説明でありながら、その説明が催眠術になっている。
・何故、くもりガラス越しごしに話すのか?
それは、朦朧とした視覚を与えることで、被術者の勘違いを引き起こし朦朧とさせるためである。
・なぜ音声がくぐもった処理をされているのか?
それは、朦朧とした音声を与えることで、被術者の勘違いを引き起こし朦朧とさせるためである。
・なぜ、字幕が出てくるのか?
声がはっきりと聞こえないから、字幕が必要になる。そして朦朧としていく意識の中で、その文字を読むために苦労し、そのことが被術者が催眠にかかった自覚を促す要因になる。
・彼の動作は、なぜ大げさで威嚇するようなものが多いのか?
それは、私たちがコミュニケーションするときには、相手の言葉だけでなく、その態度身振りを見て、その人物の心を探ることに慣れているからだ。意識水準が低下してくると、言葉を理解することが難しくなってくる。そうなると、動物並みの原始的な身振り手振りのコミュニケーションがより強い影響を示し始める。
彼は、朦朧としていく被術者の心に積極的に身振り手振りで語りかけ、そして時折威嚇するような素早い動きを取り入れ、催眠術にかかっていく者に、自らの力を誇示している。
・彼は、なぜ恥ずかしげもなく、セックスの話ができるのか?
朦朧として、ぼんやりとした意識の状態、たとえば夜中に揺すり起こされたときに相似した状態であり、私たちは、難しい話ができるだろうか?
そういう場合には、私たちは単純な話しかできない。そしてレベルの低い欲望水準の話しかできない。眠い、食べたい、やりたい、かちたい、わらいたい、こういう欲望に油を注がれると、被催眠下の私たちは、そのように意識を誘導されていきやすい。
そして、もういちど、今度は、画面をロールアップして、くぐもった画面がうつらないようにして見てみる。そして音声をミュートして、字幕だけ読んでみる。
彼の説く催眠理論を理解する為だけなら、この字幕を読んでいるだけで十分なはず。しかし、ここには催眠効果はもうどこにもなくなっている。残っているのは、まどろっこしくて、スッキリと整理されていない日本語であり、唐突に始まるセックスの話への違和感だけである。
警告。
大画面、まともな音響装置で、なんの心の準備もなくこれを見てしまうと、血圧の高い人には負担が大きいので先にタネをバラしておいたほうがいいと思う‥・。
単調な刺激が数十秒続いて錯覚から勘違いを引き起こされ、見ているものの意識レベルが低下して、半分寝ぼけたようになった後、
、画面は突如として『エクソシスト』の悪魔にとりつかれた少女の顔に切り替わる。そして女の絶叫。
心のものすごく深いところまで恐怖が飛び込んでくるようだ。いたずらで使うべきものではない。
催眠模様と人の目を重ねる。目の催眠効果とは、人は本能的に競争相手に勝ちたいと願っており、それゆえ、対決の前段階のにらみ合いの勝負で目をそらしたくはない。
催眠術師は、このにらみ合いに負けないように訓練を積んでいる者たちであり、普通の人は一分間に20回以上のまばたきをする。それに対して、役者や催眠術師は、一分以上瞬きをしない訓練を積んでいる。
この視線のやりとりだけで、私たちは、対面の人に、心理的に優位に立つことができ、そしてその優位が相手を催眠に誘導する条件となる。
パフュームのライブには、これら催眠術の技法がいやと言うほど詰め込まれている。そういうよりも、催眠術の技法だけで成り立っていると言うほうが正しいだろう。
ヒプノボードに相似したモノクロ模様の明滅、赤と緑の補色関係のレーザー、白の照明の明滅、高速で画面に飛び込む文字、これらはすべて視覚に残像を作り出し、錯覚を生じさせるきっかけになる。
そしてその錯覚の原因を、パフュームとそのステージングへの畏怖と感動に観客は勘違いしていく。
音楽については、催眠術のヒプノボードのBGMと大差ない。ズンチャ・ズンチャ・ズンチャ・ズンチャのの繰り返し。
この二系統の刺激により、私たちの時間感覚も徐々にずれ、意識水準は低下し、暗示にかかりやすくなる。そしてこのリズムは平常の脈拍よりも早いリズムであり、観客がこのリズムに心臓鼓動を同調させるならば、軽度の興奮状態におかれることになる。
催眠術は、被術者を常に眠くさせるわけではなく、興奮に導くこともある。
そして時間の感覚は興奮するほどに長く感じられるようになる。
楽しい時間は早くすぎるとは言うが、心理学的にはそれは違う。人に興奮状態を作り出しドキドキさせたほうが、主観的には時間ははるかに長く感じられる。小学校の注射を待つ列にいる時を思い出して欲しい。あの緊張で心臓がバクバクいっていたとき、どれほど時間が長く感じられただろうか?そして、駐車が終わったあとの時間はどれほど早く流れることか。
マクドナルドは、この人間の心理傾向を利用している。店舗の内装には人の心理を興奮させる色彩、つまり赤、黄色、緑等を多用し、BGMもテンポの速いものにし、来客を軽い興奮状態にする。こうすることで、マクドナルドはより短い時間で来客を店から追い出すことに成功している。
それから、
スクリーンに、彼女たちの顔面のアップが映るのだが、それをチェックしてみると、「かしゆか」に関してはほとんど瞬きをしていない。観客のほとんどは、眩しいライトの明滅もあり、かしゆかとのにらめっこに負けてしまうだろう。そして、彼女に対して負け犬のような従順さを感じてしまわないだろうか?
また、彼女たちの振り付けはどうだろうか?『滝沢式催眠術』のゼスチャーと異なるものだろうか?威嚇するようなポーズが時々挟まれたりはしないだろうか?
そして、真に注目すべきは、この歌の歌詞である。従来の詞の観点から言うと、これはジャンクボックスみたいなもの。これはじつに催眠術的。
単純なリズムに対応させるために、断片的な言葉が並んでいるだけらしいのだが、それらはことごとく、英語だったり、言葉が聞き取れなくなるまで機械的に加工されたものだったり、脈絡のない言葉だったりする。ただ一言『誰だっていつかは死んでしまうでしょう』という聴く者をどきりとさせるセンテンスだけが明瞭に聞き取れる。
意味不明の妄言で、観客の聴覚に錯覚を呼び起こし、そこで朦朧とした意識の状態を作り上げ、半分トランスしてしまった観客の脳裏に「誰だっていつかは死んでしまうでしょう」というアイドルが言うはずもないセンテンスを突き刺す。
これは、まるで催眠術師が、被催眠術者に言葉で強い暗示を書ける様とそっくりである。
尤も、相当にさいみんじゅつに掛かり慣れた人でない限り、この一曲で催眠術にかかることは出来ないだろう。しかしそれでも、ヒプノボードをしばらく眺めている時に近い暗示を受けやすい状態に人の心理は導かれてはいないだろうか?
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最近、私にとって映画はどうでもいい気がしてる
私の使っているPCはタッチパッドの感度がおかしくて、
文字打ってる途中で急に画面が動いたりするんで、それゆえに誤字脱字が多いんですが、
特に、去年の夏以降のものはマジで誤字脱字てにをはの内間違いが多いです。
それはどうでもいいのですが、
わたくしには、
はてなブックマークというものがよく分からない。
ブックマークってしおりのことだと思っていたのですが、
なんか、ここで誰に向けてのコメントだか知らないけれども、多くの人が二、三行書いているのですね。
直接私に充てて書かれたものではなくとも、
「研究ブログの鏡」とか「テルマーとルイーズ」のキャプチャー画面には感動」とか書かれると、
素直にうれしいものです、ひねくれた私にとっても。
ただ、
中途半端な読解力で、誰に向けて書かれているのかも分からないコメントについては、
なんだろうなこいつらと思うと同時に、
まあ、確かに私のブログは読みづらい形式です。というかブログで書く内容ではないですわ。
?アラビア語圏だったら、アラビア語は<−に書くのだから画面は<−に進むのか?
まず、こういう書き込むする前に自分で調べてみろよ、と私は思います。人類の共有知を増加させる気概持ってないんですか?と。
私は、このブログに書いたかどうか忘れてしまいましたが、当然のごとく、このこともチェックしました。
はっきりいうと、映画をたくさん作っていない地域では、映画の進行方向がどうのこうのということはまったく問題にされません。
ただ、リアルなものが画面に映っていればそれで盛り上がる観客がいるだけです。
アラブ圏は肖像画を忌み嫌う土地柄ですし、映画はあんまり作っていません。
イラン映画数本見たんですが、
よく分かりませんでした。たぶんー>進行のアメリカスタイルでしょう。
そしたら 古来より日本と同じ文字の縦書き圏で<−向きの中華圏その周辺地域はどうなのか?
ベトナムは数本見ましたけど、ー>じゃないですか。
中国も、映画人画映画を好きに取れるようになったのは改革開放以降ですから、現代アメリカ映画の影響が強いです −>
北朝鮮
『プルサガリ』という怪獣映画を見たんですが、円谷プロの、
−>進行です。
つまり、古来空の文字の書き方向と映画の進行方向はアジアにおいては関係なさそうだということであり、
日本でも、60年代までの映画のことを考えると、
画面の進行方向と文字の書き方向は直接関係がない、と結論出さざるを得ないでしょう。
?車が右ハンドルだったら、画面は<−進行だ、というなら、イギリス映画とフランス映画は方向がちがうはずらろ!というコメントに対して。
このコメントに対して、私が思うことも、
そう思うなら、まず自分で調べそのことに対し知識を公開し、人類の共有知の総量を増やせよ、と思います。
ブログの記事に対するブックマークのコメント三行で、こんなことかいても、あなたのことを誰もさえているとは思ってくれないでしょう。
私が、車の右ハンドルと左ハンドルが日本とアメリカの画面の進行方向を分けるきっかけになった一因と考えた直接の原因、それはあくまでも一因なのですが、
とある短編映画際で、有る作品を見たことによります。
その作品は、ものすごくいい加減で、完成までの期日が限られていたものであり、
それゆえなるべく早く仕上がるように撮影されたものらしいので、
内容もひどいものでしたが、
ただ、画面の進行方向は←に統一されていました。
そして、場末の映画祭にふさわしく、その監督に一観客として私は尋ねてみたのです。
「どうして、←方向に画面の移動方向を統一したのですか?」
よく自覚していなかったそうです。
ただ、車の運転している場面とるのに都合よかったそうです。
どうしてイギリス映画ではー>進行なのに、日本映画では<−なのか?
イギリスはあんまり映画とっていないでしょ?
日本の四分の一くらいでしょ?
それにアメリカ映画にどっぷりでしょ、同じ英語圏なのだし。
なんというかね、誰に向かってコメントしてるんだろうこいつら?な穴あの世界で空気読みあってんの?とか思うわけです。
『映画の抱えるお約束事』の後書き
このブログは、自分の中では既に情熱が切れてしまったものですが、
どのようにかかれたのかについて説明したい情熱と欲求は、今、かなり持っています。
とりあえずの方は こちらよりどうぞ。
私は一昔前はかなりな映画ファンでした。それを人生の仕事として選択しようとは考えませんでしたが、映画を職業に選択しない人の中では相当に映画が好きな部類でした。
そして、よくあることですが、いつの間にか映画を見なくなってしまいました。
映画の中のフィクションよりも現実のほうが大切だと思えるようになったということなのかもしれません。
まあ、それでもときおりぽつぽつと映画を見ることはありまして、
えらそうな内容の映画とかは敬遠して、好みの女の子が出ている映画をたらたら見るだけという日々が何年も続いていました。
そんで、気がついたら何年間も映画館に行っていなくて、シネコンの夜の回だと1200円で映画が見られることを知らなかったんですが、
ためしに一回行って千二百円でみたんですよ。
それが『おにいちゃんのハナビ』という谷村美月と高良健吾の出演作で、
シネコンの夜の割引の回で、私以外に誰も観客いなかったんですが、
はじめの内はなめてかかってたんですけれども、これが泣けてなけて仕方がない。
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そして、そのとき、どうして自分がこの映画に泣けるのかがよくわからなかったんですね。
最初は、谷村美月が自分の好みにぴったりだからだろうと考えました。まあ確かに好きなタイプでは有るんです。
それで翌日にツタヤにいって、ありったけの谷村美月のDVDを借りてきて見ることになるのですが、
これが驚くのなんの。
たかだか十代半ばの女の子が、ありとあらゆるへんな役を演じていて、そのどれもにそれなりの説得力が有るのです。
私は谷村美月のことを天才少女だと思いましたね。
そして、たかだか十代半ばの女の子がいったいどのようなマジックを使ってだいの大人を泣かせたり感動させたりしているのか、丹念にチェックしてみたい衝動が抑えきれなくなり、
DVDみながら彼女がやっている演技をすべて調べてみた。
立ち位置、瞬き、視線の動かし方、手の動かし方…、
そういうことやっている内に、「ああっ、おおっ、こ、こっ、これは、もしかして…」と気がついていくことになるのですが、
谷村美月の主演作『カナリア』を見ていて、東海道線上りで関西から東京に向かう電車が、−>方向に進んでいるシーンを見つけてしまったとき、これは北を上にして地図を書いている私たちの日常感覚からすると逆の方向です。
つまり、画面の進行方向には明確な目的が仕込まれているらしいということですが、
そして、そこから類推して宇宙戦艦ヤマトのポスターの向き、時をかける少女の走っている方向、…。
だいたい、ここまでに1ヶ月半ほどかかっています。毎晩毎晩谷村美月漬けではたから見ると変態にしか思えなかったでしょうが、
一ヵ月半で映画の画面に進行方向を見つけられたのは早かったのか、それとも遅かったのかは、私にはよくわかりません。
ほとんどの人は、一生こんなこと思ってもみないまま死んで行くでしょ?
私は、自分の発見したことを父親にも話してみたことがあります。
どうも、彼はこの内容が理解できなくて、そして理解できないまま癌で死にました。
人生で何か発見することってなかなかないもんですが、私の場合は、映画の画面の向き発見することにそのツキを使ってしまった可能性があります。
だとすると悲しいことなんですが、
それはいいとして、
当然のごとく、ほかの映画でも自分の思いついたことが正しいのかをチェックしてみるのですが、
『2001年』のディスカバリー号の進行方向、『タクシードライバー』の車の動く方向などから、
どうやら洋画は日本映画とは方向が違うことを見つけました。
邦画と洋画では進行方向が違うことに確信を得たのは、「ああっ、おおっ、こ、こっ、これは、もしかして…」の当日内です。
これには時間がかかっていません。
なぜ
邦画と洋画で進行方向が異なるのかについては、文字を書く方向が左右逆だからだろうということにすぐに思い当たり、
最初にやったことは、自分の本棚からマンガを取り出して、その絵の進行方向を調べてみること。
ちょうどいい具合に藤子Fの『ミノタウロスの皿』とベルギー人の書いた『タンタン冒険』では進行方向が逆になっています。
そしたら、漢字圏の映画は日本と同じように<−に映画が進むのだろうかとすぐに思い立って調べてみるのですが、
自分が所持している中国香港台湾韓国北朝鮮の映画をいろいろチェックしてみるのですが、
どうも、日本一国だけがこのように特殊な<−方向の映画をとっているようにしか思えませんでした。
香港、中国はいいとしても、
世界から孤立が長い北朝鮮もまあいいとしても、
台湾と韓国の映画はその黎明は日本映画につながっているものでして、
そんなら台湾と韓国は絶対に日本と同じく<−進行だろう?とめぼしをつけるのですが、
これがなかなか方向が見えてこない。
時々ポツリポツリとー>方向に設定された映画を見つけることになるのですが、
「旧植民地日本映画の名残はないのであろうか?」と感じ、
次に、満鉄が中国で製作していた映画をチェックしてみるのですが、
李香蘭の映画を見ると、映画がー>と洋画と同じ方向に進行しているのですね。
これで、また私は分からなくなってきました。
もしかすると私が、見つけたと思った大発見は、単なるよくできたほら話に過ぎなかったのだろうかと思いつつも、
満鉄と同時期の日本映画、もしくはその後の白黒日本映画を何本も見ていったのです。
その結果、私がたどり着いた結論は、日本映画は進行方向をー> 向きから <− にチェンジしているというもの。
私は、この発見に完全に夢中になってしまいました。
つまり何が言いたいのかというと、
私のブログの『映画が抱えるお約束事』を読まれて、ドヤ顔で私の理論のあらを見つけたみたいに一行二行書き込まれる方がいらっしゃるのですが、
それらの方に対して忠告いたしたいのですが、
「登場人物が上司の部屋に入室するときには左右の向きが逆になる」とか『ブルーマックス』という映画ではドイツ軍とイギリス軍の向きは地図上のイメージと異なる、というような濃い内容のことをすべて自分で調べて書き込むような人物は、
あなたがこのブログを一度飛ばし読みした後にドヤ顔で一行二行書き込むようなことは、当然思いついていますし、検証もしています。
そして、このブログのほかの箇所をお読みになられるようでしたら、どこかにあなた方の疑問に答えることはたいてい書かれています。
その程度のことは、類推できてしかるべきでしょう?
そして、映画を見るたびに画面の進行をチェックし、いちいちその映画の画面構成の仕組みに驚き、興奮し、そのことを周囲の人たちに話そうとするのですが、
正直、誰もまじめに聞いてくれませんでした。
酒飲みながらこの話をすると、かなりの人が私のことを酔いがしたたかに回ったか、頭おかしいくらいにしか思っていませんでした。
それで、仕方がないのでブログにぽつぽつ書いていくのですが、
書き始めた時点では、まだこの理屈が完全にはまとまってはいませんでした。
それゆえ最初のほうに書いて有る内容と最後のほうに書いて有る内容には食い違いが見られる点も多々有ると思いますが、その点はご了承ください。
そして、このブログを読んで、「面白かった」とほめてくださった方々。そういっていただけると正直うれしいものです。
そして、そのあと、この内容を誰かに話してみたりされた方はいませんか?
そして、その場合、どのような反応がありましたか?
おそらく、私が体験したのと同じように、極度の無関心、どうでもいいといった態度に出くわされませんでしたか?
「映画の画面において虹の向こうは → の方向に設定されている」
たったこれだけの内容ですので、
これ聞かされたほうの反応というのは、
「で、・・」でお終いです。
それは、相手が頭悪いからでしょ、とか、映像に興味ないんでしょ、とか思われるかもしれませんが、
東大とかオックスフォードでた人でも、「で、…」でしたし、
わたしの父親は、自称大の映画ファンでしたが、わたしの言っていることの意味がわかりませんでした。
「映画の画面において虹の向こうは → の方向に設定されている」
このことの真偽を確かめようとして、ツタヤで『生きる』(→)と『ナウシカ』(←)とET(→)『天然コケっこー』(←)『犬神家の一族』(→)を借りてきたとしたら、
「ああ、電波ブログに騙された!」と思われるでしょうし、
わたしのブログの内容に対して「壮大なほら話だった」でおしまいでしょう。
「映画の画面において虹の向こうは → の方向に設定されている」という自分史的には大発見の事実を、他者に理解してもらうために、わたしは四苦八苦して、最終的にたどり着いたのがこのブログの『映画が抱えるお約束事』という記事で、そこは今現在多くの方からブックマークをもらっているのですが、
それにしたところで、書き込まれたコメント見ると、
内容理解された方はせいぜい半分というところでしょうか?
それは、わたしのブログの書き方が悪いせいでもあり、
『映画が抱えるお約束』の次に日本映画の進行方向は60〜70年代にひっくり返っているという次の記事にうまく誘導できていないことでもあります。
ただ、しかし、うまく誘導できたなら、完全にわかってもらえるのかというと、誘導できたはずの方がたのブックマークのコメントを読む限りでは、どうもそうでもないのですね。
ひとつには、画面の進行方向に関する日本映画の歴史が込み入ったものであるというのがあります。それゆえにわたしの記事も長いものになってしまい、途中で読むのやめてしまう方が大勢いる。
読むのやめてコメントせずに無視するならそれでいいのですが、わたしが『映画が抱えるお約束事』に書いた内容というのは、読んだ人をボンクラ呼ばわりしているように感じさせる性質を悲しいことに持っていますんで、なんか一言書き込みたくなるのだと思いますよ。
まあ、それはどうでもいいとして、
このブログを書くにあたり、一番難しいと思ったことは、キャプチャー画面に矢印書き込んでも、ほとんど誰も見てくれないということです。
普通の人にとって映画とは一度見てストーリーを理解したなら用済みな物です。何度も繰り返してみるわけではないですから、どのカットがどうだったとか、画面上で人物はどのように方向を変えたかについては、覚えている人は極稀です。
よく覚えてもない映画のシーンをキャプチャーされても「で、…」でお終いですし、
映画のストーリー理解して楽しんだ後に、キャプチャー画像見せられても、「もうおなかいっぱいだよ」ってところでしょう。
そして、困ったことに、わたしが一番語りたいはずの谷村美月の映画って、ほとんど誰も見ていないんですよね。
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「『カナリア』では 東海道線が 東京を目指して → 方向に走る」
実際このブログで、延々とこのことをわたしは書いていますが、まあ、誰も読まないでしょう。
そのことはわかってましたけど、自分の中では谷村美月の映画について語りたい衝動を止めることができなかったんですね。
そんで、わたしがたどり着いたのが宮崎駿の諸作品でした。ジブリ作品は日本人みんな見てますしね。
自分が一年ちょっとで書き溜めた内容は新書にするなら、すぐに3冊分くらいにはなるでしょう。
もし「本でも出版しない?」とか言われるんでしたら、『風の谷のナウシカ』の「北枕」を中心にするといいとわたしは考えますけど。
でも、これだけキャプチャー大量に使うのは出版には無理でしょうね。
電波ブログの振りして、ネットの片隅でこっそりやってる方がいいと思ってそのようにやってきた次第です。
誰もが知っている宮崎作品にしたところで、
よく覚えてもない映画のシーンをキャプチャーされても「で、…」でお終いですし、
映画のストーリー理解して楽しんだ後に、キャプチャー画像見せられても、「もうおなかいっぱいだよ」
ということになりますので、
『映画が抱えるお約束事』では、雑多な映画をピックアップして解説してあります。それゆえに解説するものが都合のいい場面だけ選んで都合のいいこと言っているだけじゃね?と思われる方もいるでしょう。
実際都合のいいシーンだけ集めていますから。
ブックマークのコメントで『アラビアのローレンス』でこのことについて話そうとしたら聴講者がだれも『アラビアのローレンス』見たことなくて涙目になったと書かれていた方がいらっしゃいまして、
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そうなんですよ。
マジな話、このブログの内容は
「映画の画面において虹の向こうは → の方向に設定されている」
の、たった一行をうまく他人に説明するために四苦八苦した記録に過ぎぬわけです。
ちなみに、わたしはこのブログを書くとき、たいてい酒を飲んでおり、それゆえに粗暴な言葉を書き連ねたり、逆にやたら涙もろいことを書いていたりもするのですが(チャップリンの『キッド』とキューブリックの『突撃』については今読み返すと実に涙もろいことを書いています)、
コメント欄の書き込みに対して、激怒することも多々有りまして、
一番腹が立ったのは、
「これって定説なのでしょうか?参考文献有るのでしたら、紹介してください」と言うもので、
このコメントについては、呪詛のような返答を書き込み、あまりのえげつなさに、自分の返答と元コメともども削除しました。
学者の目指してるような方だと、こういうコメント書いちゃうんでしょうね。
初対面の人に「わたしの指導教授は…です」みたいな自己紹介する方たくさんいる世界ですし。
「自分は、こんなこと考えてこんな意見発表しました」みたいな自己紹介できないもんなんでしょうか?
もし
参考文献に当たるようなものがもしあるなら、
下條真輔氏 の 『サブリミナルマインド』
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西村雄一郎氏の 諸作品

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位しかありません。
ただしかし、このブログ書くために読んだ本と言うよりかは、書いてる時期に興味持った本と言う程度で、引用したわけでもありません。
これらの本よりは、フロイトとかの心理学の本で十年以上も昔に読んで自分の脳みその血肉になっている本のほうがはるかに自分の中では「参考」になっていますね。
富野理論は、このブログの最後のほうになって触れてありますが、書いている段階では知りませんでした。
それ以外にも映画の教科書みたいなのも読みました。
「つまりあんたの言いたいこと一行でまとめると『映画の画面において虹の向こうは → の方向に設定されている』ってことだよね」とわたしには要約できるような本も有るのですが、
富野理論『映像の原則』みたいにはっきりと言い切った本って、他にはわたし知りません。

映像の原則―ビギナーからプロまでのコンテ主義 (キネ旬ムック)
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まあ、それはいいとしまして、
参考になった意見というより、のちのちになって、なるほどと思わされたものは、
BSマンガ夜話の夏目房之助氏の「明日のジョーのラストは、ページめくる方を向いて座っているから、まだ死んでいない」。
彼はマンガを読むときの視線についてかなり考察した人物です。
それと、
誰の著書か覚えていませんが「左右学」についてのもので、「『アラビアのローレンス』の進撃方向は、状況が順調に推移するときは→ そうでないときは←の傾向があるらしいという研究がある」という一行。
夏目房之助がBSマンガ夜話でこの話してたとき、スタジオのほかの人たち半笑いでした。
わたしも、この意見聞いたときは、まだこのブログに書いたようなこと考えたことなかったので、「そういう見方もあるだろうな」程度のさめた感じ方です。
ローレンスの進撃方向にしても、「そういう考え方もあるんだな、なるほどー」みたいな、それこそこのブログのブックマークで多くの方がコメントされているような感じ方しかしていませんでした。
わたしにしたところで、谷村美月という切っ掛けがなかったら、画面の進行方向なんてどうでもいいことだったんでしょう。
逆から言うなら、映画を本気で理解しようと思い始めると、必然的に画面上の流れが見えてくるものです。
先ほどの『アラビアのローレンス』で涙目という方のコメントから推測するに、
たぶん、『アラビアのローレンス』で進行方向のチェックした人がすでにいて、それなりに世の中に公表しているのでしょう。
ただしかし、
よく覚えてもない映画のシーンをキャプチャーされても「で、…」でお終いですし、
映画のストーリー理解して楽しんだ後に、キャプチャー画像見せられても、「もうおなかいっぱいだよ」
という以上に、DVDなかった時代にこんなこと言っても、今以上に馬耳東風だったでしょう。
それよりかは、自分の政治信条や道徳を他人の撮った映画を利用して語るような映評のほうがはるかにとっつきやすいでしょう?
蓮見重彦氏はそういう映画評をコテンパンに馬鹿にしているのです(蓮見氏の文章自体いかがなものか?という気もしますけど)。
わたしにしたところで、映画の進行方向を見つけることができたのは、映画をPCでみるようになってからです。
ビデオやDVDプレイヤー使っていたときは、映画はもっとシンプルなもので、
始まりからおわりまで一息にみるものでした。
止めたり、戻したり、キャプチャーしたり、時間計ったりという見方はしていませんでした。
つまりわたしの映画の見方というものは、ノートPCの進歩が後押ししたものであり、
テクノロジーの裏づけが必要なものなんですが、
今現在ノートPCで映像の編集を趣味にされている方も大勢いらっしゃるとは思いますが、非プロフェッショナルでも、自分で編集している内に映像の進行方向の理論見つけてしまう人は大勢いるだろうし、今後さらに増加していくとわたしには思われます。
今までは業界内部の隠し事だったみたいなことが、一般人の間に下りて行った後に、
映画を見る事はどのように変わってしまうのだろうか?ということですが、
このブログ読んでみると、そういう知識ついたからといって映画がつまらなくなることはないのだなということが分かります。
このブログ書いている人、映画みてそうとう楽しんでいるようですし、むしろそれまで以上に監督や役者に親近感感じているようです。
ただしかし、プロパガンダの類や報道番組の類には怒り爆発させるようになりました。
キャプチャー画像なしで映画を語る その?『テルマとルイーズ』
今になってやっと自分は、映画を語る際にキャプチャー画面に矢印を書き込むことから開放されたような安堵感を感じる次第。
以前
『テルマとルイーズ』のDVDを借りうなったのは、
お蔵になったラストシーンとして、メキシコに向けて進む車の後姿が撮影されていたのですね。
おおっ、と思うと同時に
これ見たときの私の感想は、おそらく普通の多くの人とは異なり
「そんなもんだろ」の一言。
「あのがけから飛び出して無傷で済むなんてどこの国のファンタジーですか?それとも大ヒットしたら続編作るつもりでいたの?」なんて感想はわたしには無縁でした。
ラストの車の飛び込む方角は、ポジティブの方向で、
このラストシーンは、監督なり編集者から、肯定的なものであるとのメッセージが発せられています。
なんで、崖飛び降りて自殺するのにポジティブなんですか?といわれると、
テルマとルイーズは命よりも大切ななにかを見つけ、そこに迷わず飛び込んだ、と解釈していいのではないでしょうか?
あの車が崖から落ちて川底にたたきつけられてくしゃくしゃにつぶれるまでの数秒間に、二人の女の人は何を思ったのでしょう、何をしゃべったのでしょう?そんなことついつい考えてしまいます。
もし、この車の方向が、ネガティブ側に向けてのダイブだとしたら、
テルマとルイーズは、ダイブした時点で死人という意味を帯びるでしょう。
ポジティブ方向にダイブしたから、ダイブした時点では二人はまだ生きています。
人生の中で一番濃厚な数秒間
お蔵ヴァージョンの
メキシコに向かう二人の後姿は、中央まっすぐ進む日の丸構図で、ネガティブでもポジティブでもないニュートラルなものです。
つまり二人が崖からダイブしてたどり着いた地平には、もう逃げる必要も隠れる必要もない、ということでしょうか。
それとも、何の説明もなくとも、あの後姿を見て
あの世にたどり着いたテルマとルイーズを感じる人もいますよね?
アメリカ人は天国信じてるってこういうことなのでしょう。
音楽と似た技法
西村雄一郎氏の本にかかれてあったことですが、

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早坂文雄と意気投合した黒澤は、二人で夜通し語り合い、
映画と一番似ているものは絵画でも演劇でもなく音楽である、という意見の一致にいたったようなのですが、
でもね、マンガも音楽に似通った部分があります。
藤子Fは、二ページを四分割して、四コママンガのように扱うことの多かったマンガ家ですが、
三つ目と四つ目のグループを、バラの花によって、なだらかにつなげているのがわかります。
これは、音楽でいうところの、コードの変わり目において、そのつなぎをスムーズにするために、あえて今のコードから逸脱した次のコードの音を鳴らすテクニックと非常に似通っています。
富野理論の『映像の原則』でもこれに近いことが語られています。
あまりにもはっきりと画面の進行方向を切り替えると、画面の流れのつながりが悪くなるので、ちっちゃい要素を動かすことで、各画面のつなぎにしているそうですが、
今になって思えば、カツレツキッカやハローというのは、上のマンガで言うところのバラの花のように機能していたのだということがわかります。
心の描き方 浦澤直樹節
この記事に興味を示された方は、まずこちら『映画が抱えるお約束事』の方をどうぞ。
以下の内容の前提が記されています。
『プルート』より、10万馬力から100万馬力に改造されたアトムが心の優しさを維持しようと最後の一線で立ち止まる雨のシーン。
10万馬力から100万馬力に改造されたことで、心のやさしさを失い、単なる破壊機械に作りかえられたかもしれないアトム。
カタツムリを拾い上げ、その生命の意味を理解できないままに潰してしまうかもしれない。
御茶ノ水博士はその様子を固唾を呑んで見守っている。
アトムは、ギリギリの一線で、自分の心の存在を確認し、
100万馬力であろうとも、今までどおりのやさしさを自らの中に再び見出す。
ここで、御茶ノ水博士の立ち居地に注目してみますと、
基本ずっと赤側の立ち居地です。
このカタツムリでアトムの心の有り方を表現する沈黙のシーンですが、
その始まりでは御茶ノ水博士は青側であり、見るほうに不安を呼び起こします。
そして、このシーンの真ん中のところで、一こまだけ御茶ノ水博士の立ち居地が入れ替わります。
つまり、このシーンがアトムの心の問題の一番スリリングな箇所であり、
この後、博士の立ち居地が再び赤側に戻ることで、アトムが心の問題の峠を乗り越えたことが暗に示されます。
非常に映画的な技法であり、浦澤直樹は実に多くこの技法を用いています。
このブログ内で何度も私が語っているとおり、
心とは本来目に見えないもので、それを見えるようなあざとい演技で示すと、かえってそれは心には見えません。
画面の向きとか立ち居地の変化で示すほうが遥かに説得力を持っているらしいもののようです。
この浦澤直樹の代名詞的なコマ構成ですけれども、
マンガっておもしれーって思うのは、
御茶ノ水博士の立ち居地によってアトムの心を表現しているってことなんですが、面白いよね、やっぱり、こういうの。